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第5話 三つ目の願いが消えた夜

Author: 星宮 凪
翌日の夕方、私は約束どおり、本家の大広間へ向かった。

身内だけのささやかな祝いだと聞いていたのに、襖の向こうからは若い笑い声がいくつも聞こえてくる。

黒のワンピースに着替え、いつもより丁寧に化粧をして中へ入ると、征士郎が息をのんだ。

しばらく私を見つめたあと、何も言わずに手を差し出してくる。

その手を取る前に、莉香が征士郎の腕へ自分の腕を絡めた。

「澪さん、本当に来てくれたんですね」

笑顔は明るかったが、目だけは笑っていなかった。

大広間には莉香の友人が数人と、見覚えのない男がいた。

東京から来たという莉香の恋人、森川蓮(もりかわ れん)だった。

長く続いている遠距離恋愛の相手らしい。

蓮は壁際に座り、退屈そうにスマートフォンを眺めていた。

やがて、征士郎が用意した三段のバースデーケーキが運ばれてきた。

蝋燭の火を前に、莉香は胸の前で両手を組んだ。

「願いごとは三つあります」

無邪気な声に、周囲から笑いが起こる。

「一つ目。征士郎さんが、これからも莉香を『面倒な子だ』って笑って許してくれますように」

「二つ目。征士郎さんが、莉香のせいで澪さんを寂しがらせませんように」

莉香はそこで私を見た。

「三つ目。私の妊娠運を澪さんにもお裾分けして、澪さんと征士郎さんの間にも、早く赤ちゃんが授かりますように」

拍手が起こるより先に、膝の上に置いていたバッグが畳へ滑り落ちた。

口の開いたバッグから、一枚の書類が滑り出す。

征士郎が拾い上げた。

そこには、『流産手術後の注意事項』と印字されていた。

征士郎の顔から、みるみる血の気が引いていく。

「澪……これは、何だ」

かすれた声だった。

「いつの話だ」

莉香が事情を知らないふりをして、私たちの間へ入ってきた。

「征士郎さん、そんな怖い顔をしないでください。今日は私の誕生日ですし、みんなで楽しく――」

「澪さん、ケーキを取り分けますね」

「今は口を挟まないで」

私が告げると、莉香の笑顔が固まった。

「今日ここへ来たのは、征士郎が私の願いを一つ叶えると約束したからよ」

バッグから離婚届を取り出し、征士郎の前へ置いた。

「署名して」

「これが、私の願い」

征士郎は離婚届をつかみ、その場で二つに破いた。

「ふざけるな」

「病院の紙を一枚見せれば、おまえが妊娠していたと俺が信じるとでも思ったのか」

私は訂正した。

「妊娠していたの。もう、過去形だけど」

「どうして子どもが……」

征士郎の声が、大広間に響いた。

「まさか、俺が莉香の面倒を見ていたことに腹を立てて、下ろしたのか」

「手術を受けるつもりだったのは本当よ」

「でも、予約を入れる前に、子どもはいなくなった」

征士郎の目が揺れた。

「どういう意味だ」

冷ややかに見返すと、征士郎の顔が凍りついた。

あの夜のことを思い出したのだろう。

「ありえない」

彼の指から、破れた離婚届が落ちた。

「そんなはずはない。ぶつかる前に止まった。おまえには触れてもいない」

「車を避けようとして、石段から落ちたの」

征士郎は何度も首を横に振った。

「病院へ行くぞ。何かの間違いだ」

私の手をつかもうとした瞬間、莉香が腹を押さえてしゃがみ込んだ。

「征士郎……お腹が痛い」

いつもなら誰より先に駆け寄るはずの征士郎が、その場から動かなかった。

「今はやめろ」

「でも、本当に痛くて……」

そのとき、壁際にいた蓮が低い声を上げた。

「父親みたいな顔してんじゃねえよ」

蓮はスマートフォンを畳へ放り、ゆっくり立ち上がった。

「腹の子は、俺の子じゃなかったか?」

大広間が静まり返った。

征士郎の顔から、表情が消えた。莉香の腹に落とされた視線が、ゆっくりと彼女の顔へ上がっていく。

「……何だと」

「莉香、おまえ、まだこの男に自分の子だと思わせてたのか?」

誰も声を上げられない中、蓮は莉香の腕をつかんだ。

「今の、どういう意味だよ」

「おまえ、この男とは何もないって言ったよな」

「違うの、蓮。これは――」

「俺の子を利用して、こいつから金を引っ張るだけだって、そう言ってただろ」

「金を引っ張れとは言った。だが、その男と寝ろなんて言ってねえぞ!」

莉香の顔色が変わった。

「こいつと寝たのか」

答えない莉香の頬を、蓮が平手で打った。

若い衆がすぐに二人の間へ入り、蓮を押さえる。

莉香は頬を押さえ、泣きながら叫んだ。

「寝てない!」

「征士郎さんの家に泊まっただけ。何もしてない!」

「だって蓮は、私のことを大事にしてくれないじゃない」

「征士郎さんは、蓮よりずっと優しかった!」

「莉香、黙れ!」

「何もなかっただと?」

征士郎が信じられないものを見るように莉香を見た。

「何度も俺の部屋に来ておいて、よくそんなことが言えるな」

征士郎の目から、すっと温度が消えた。

「そいつを奥へ連れていけ」

蓮を押さえていた若い衆が、わずかに身じろぎした。

征士郎は声を落とした。

「連れていけ。始末しろ」

その場にいた全員が、息をのんだ。

若い衆が蓮を引きずるように立たせた瞬間、私は二人の前に立った。

「やめて」

「どけ、澪」

「どかない」

征士郎の目をまっすぐ見返した。

「今の命令は、ここにいる全員が聞いている。森川さんに何かあれば、私が警察にすべて話すわ」

「こいつは俺の顔に泥を塗りやがったんだぞ」

「だから殺すの?」

私は静かに問い返した。

「莉香さんに騙された腹いせに、この人を殺すつもり?」

征士郎の頬が引きつった。

「これ以上、私の目の前で誰かを傷つけないで」

短い沈黙のあと、征士郎は若い衆に向かって吐き捨てた。

「……外へ放り出せ。二度と本家に近づけるな」

若い衆は蓮を連れ、大広間を出ていった。

征士郎はそこでようやく私を振り返った。

「澪、信じてくれ。最初は、莉香が酒を持って俺の部屋に来た夜だった」

「あいつが勝手に寝室へ入ってきたんだ」

「もういい」

私は彼の言葉を遮り、手術の明細書を征士郎へ差し出した。

「よく見て。あの子はもういない」

「女に誘われたから、自分は悪くないとでも言いたいの?」

征士郎が息を詰まらせる。

「本当に卑怯ね」

私は破れた離婚届を拾い上げ、彼を見た。

「九条征士郎。私はあなたを軽蔑する」
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